第四章:錆びたシャッターと効率という名の迷路
1. 効率性の罠
とある土曜日。大学の最寄り駅から二駅離れた、古びた「さつき台中央商店街」。
只野教授は、嬉々としてカメラを構えていた。彼の研究のテーマは、この商店街の約三十年間にわたる「閉店告知ポスターの書体とレイアウトの変遷」である。
「なるほど。このゴシック体と明朝体の混在具合、そして『ご愛顧ありがとうございました』の『あ』が特に丸い。これは、おそらく昭和末期から平成初期に流行した、手書き風フォントを模倣した筆跡だな」
只野教授は、シャッターが閉まったままの八百屋の前に立ち、夢中でノートにメモを取っている。その様子は、まるで古代遺跡を発掘する考古学者のようだ。
その只野教授の隣で、森川准教授は明らかに居心地が悪そうに、ポケットに手を入れて立っていた。
「先生、正直に申し上げます。この商店街の調査に、私をアサインした意図が理解できません。今日の私は、本来、自宅で教育工学の最新論文十本を精読する予定でした。このフィールドワークのROI(投資収益率)は、極めて低いのでは?」
森川は、昨日只野教授に「共同研究のヒントがある」と言われ、半ば強制的に連れ出されていた。彼にとって、錆びたシャッターや埃っぽいポスターは、データ化も最適化もできない、ただの「ノイズ」でしかなかった。
「森川先生、そう急ぐな。効率化とは、道筋を直線化することではない。無駄な寄り道を『許容』し、『楽しむ』こと、それ自体が学問の、ひいては人生の効率化につながるのだよ」 「先生、それは論理の飛躍です」 「いや、論理だ。さあ、この『たばこ』の自販機に貼られた、色褪せたアイドルグループのステッカーを見てごらん。なぜ彼女たちは、この場所に『残された』のか……」
森川は額に手を当てた。この時間が、彼のスマートウォッチのストレス計測機能を爆発寸前に追いやっているのは間違いなかった。
2. サード・オプザーバーの登場
その時、商店街の入口から、一人の若い女性が不安そうにキョロキョロしながら近づいてきた。佐藤美咲だった。
「先生! 森川先生も! なんでいるんすか、こんなとこで」 「おや、佐藤君。君も寄り道かね?」 「違います! 只野先生に、昨日『大事な就活のヒントがあるから、この場所に来い』って言われたんで……」
森川は驚いて只野教授を振り返る。 「只野先生、これはどういうことです? 私だけでなく、学生まで巻き込んでいる?」 「慌てるな、森川先生。彼女は、今まさに『自己という名の遺跡』の発掘に悩んでいる。遺跡の発掘は、チームで行うものだろう」
只野教授はそう言って、佐藤に古びた地図を差し出した。 「佐藤君。君は今から、この地図に載っている『さつき台クリーニング』を探してくれたまえ。そして、その店のシャッターに貼られているポスターを観察してきてほしい」
佐藤は地図を受け取った。地図には、教授の手書きで「消滅」「不明」などと書き込みがされている。
「え、これ何かの課題っすか?」 「課題ではない。フィールドワークだ。クリーニング店を探す過程で、君が何に目を奪われ、何を無視するのか。それが、君の『価値観』の最適解を示してくれる」
只野教授は再びカメラを構え、自販機のステッカーの撮影に戻った。
3. 効率性と観察力の交錯
佐藤は不満顔で歩き出した。森川は、この非効率で非生産的な状況に我慢ができず、只野教授に詰め寄った。
「先生、佐藤君には『地図を効率的に見て、最短で店を見つける』というタスクを与えるべきです。それが社会でのタスクマネジメントの練習になる!」 「最短、最短と言うがね、森川先生。最短ルートは、いつもつまらないものだ。私は、彼女にこの商店街の『余白』を歩かせたいんだ」
森川は反論を諦め、ため息をついた。仕方なく、彼も地図を広げ、佐藤が最短ルートを外れていないか監視し始めた。
十分後。佐藤が戻ってきた。
「先生、ありました。『さつき台クリーニング』。シャッターは半分閉まってて、貼ってあったポスターは……えっと、すごく古い、白黒の『スピード仕上げ』ってやつでした」 「ほう。そのポスターのキャッチコピーは覚えているかね?」 「……えっと、『お急ぎなら二時間。家族の愛を大切にするあなたのためのクリーニングです』みたいな」
只野教授は嬉しそうに頷いた。 「佐藤君。それは『家族の愛』と『スピード(効率)』という、一見矛盾する価値観を、当時の社会が両立させようとしていた証拠だ。森川先生、どう思う?」
森川は不意を突かれ、口ごもった。 「その……当時のマーケティングとしては、ワークライフバランスに配慮したインサイトを突いた表現かと……」
只野教授はクスッと笑った。
「私の言いたいのはそうじゃない。佐藤君、君が店を探すとき、何を意識した?」 佐藤は少し考えた。 「えっと、最短ルートで行こうとしたけど、途中で『花屋』のおばちゃんがやたら元気なのが気になって、少し話を聞いちゃいました。それで、遠回りになっちゃって……」 「そう! 花屋のおばちゃんの『元気』という非効率な要素に、君は惹かれたんだ」
只野教授は、汚れたノートにすらすらと書き込んだ。 「つまり、君が重視しているのは、『人間的な湿度』だ。企業選びも、効率や給与より、そこで働く人の『湿度』で選ぶといい。それが、君の最適化アルゴリズムだよ」
森川はハッとした。彼はいつも「給与」「業績」「成長率」というドライなデータばかりを見ていたが、佐藤の「湿度」という指標は、確かに彼女の個性を表していた。
商店街に、午後の日差しが傾き始める。 錆びたシャッターの前で、教授の「非効率」なフィールドワークは、二人の迷い人にとって、かけがえのない「効率的な」人生のヒントとなったのだった。


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