只野教授の生活

只野教授

最終章:旅立ちの日の路上観察と、未来への「トマソン」

1. 袴とベルベットの摩耗

三月。キャンパスの桜はまだ三分咲きだが、風には確かな春の匂いが混じっていた。

卒業式。体育館の重厚なカーテンの陰で、只野教授は一人、しゃがみ込んでいた。 華やかな袴(はかま)姿の女子学生や、ぎこちないスーツ姿の男子学生たちが記念撮影に興じる中、彼は舞台袖の「幕」の裾を凝視している。

「……先生、何やってるんですか。式、もう終わりましたよ」

声をかけたのは、艶やかな矢絣(やがすり)模様の袴に身を包んだ佐藤美咲だった。 隣には、少し太ったように見える田中もいる。二人とも、今日でこの大学を巣立つ。

只野教授はゆっくりと立ち上がり、眼鏡の位置を直した。 「ああ、佐藤君、田中君。おめでとう。私は今、この演台の幕の『裾の擦れ具合』を見ていたんだ。何十年もの間、数えきれない登壇者の革靴と擦れ合ってできた、この微細なほつれ。これこそが、アカデミズムの歴史の堆積だよ」

佐藤は吹き出した。 「最後まですごいっすね、先生。感動的なスピーチとか考えてないんですか?」 「スピーチは学長がしただろう? 長くて立派なやつを」

只野教授は悪戯っぽく笑い、「さあ、研究室に戻ろう。片付けがまだだ」と歩き出した。

2. 無用階段(トマソン)になれ

研究室は、四年間で一番きれいに片付いていた。 佐藤と田中の私物はダンボールに詰められ、机の上には、あの日と同じ「努力」と書かれたマグカップだけが置かれている。

「先生、お世話になりました」 田中が深々と頭を下げた。「僕、結局、第一志望の企業は落ちましたけど、地元の小さな文具メーカーに行きます。そこで、街の文房具屋さんの『試し書き』を回収して分析する企画を通そうと思ってます」

「ほう! 『試し書き』の筆跡には、人の無意識が現れるからね。それは素晴らしい路上観察だ」 教授は嬉しそうに頷いた。

そして、佐藤の方を向く。 佐藤は、第一章で悩んでいたのが嘘のように、晴れやかな顔をしていた。彼女は、ユニークな視点を評価され、Webメディアの編集者としての道を歩むことが決まっていた。

「先生。私、寄り道ばっかりの大学生活でしたけど、悪くなかったです」 「うむ」

只野教授は、ポケットから一枚の写真を取り出し、二人に差し出した。 それは、壁に向かって伸びるだけで、どこにも通じていない「無用階段(純粋階段)」の写真だった。かつて、OBの葛城が語っていた「トマソン」だ。

「最後の講義だ。よく聞きなさい」

教授の声が、少しだけ低くなった。

「社会に出れば、君たちは『役に立つこと』を求められる。階段なら、上へ通じていることが正義だと教えられるだろう。だがね」

教授は写真の階段を指でなぞった。

「この階段を見てごらん。どこにも行けない。機能としては『無駄』だ。しかし、機能から解放されたことで、この階段は純粋に『昇り降りする形』としての美しさを獲得している。存在すること自体が、見る人の心を揺さぶるんだ」

佐藤と田中は、黙って教授の言葉を噛み締めた。

「君たちも、たまにはこの階段のようになりなさい。効率や利益というゴールを失っても、ただそこに在るだけで面白い。誰かの記憶に残る。そんな『愛すべき無駄』を含む人間になりなさい。そうすれば、どんな時代になっても、君たちの人生は豊かであり続ける」

それは、効率化の波に揉まれる現代社会へ飛び込む教え子たちへの、只野教授なりの最強のエールだった。

3. さよならの風景

「失礼します」 ドアが開き、森川准教授が入ってきた。手には花束を持っている。

「只野先生、これ。学部一同からです。……あと、佐藤さん、田中君。卒業おめでとう。君たちの代のデータ分析は非常に興味深い偏りを見せていたよ。元気で」 森川は照れくさそうに、早口で言って花束を渡した。彼なりの精一杯の祝福だ。

「森川先生、ありがとう。……おや、この花束の包み紙、珍しい『活版印刷』風の加工がされているね」 「先生! 今は花を見てください!」

研究室に、最後の笑い声が響いた。

夕暮れ時。 佐藤と田中は、研究室を後にした。 廊下の突き当たりで振り返ると、只野教授はもうこちらを見ていなかった。彼はすでに、森川准教授と何やら新しい研究テーマ(おそらく、学食のメニュー看板のフォントについて)を激論し始めていた。

「……行こうか」 「ああ」

二人は歩き出した。 校門を出る時、佐藤はふと足元を見た。 そこには、四年間毎日踏みつけていたマンホールがあった。 その模様が、まるで笑っている顔のように見えた。

「世界は、面白いもので溢れてる」

佐藤はスマホを取り出し、そのマンホールを一枚撮影した。 「いいね!」の数は気にしない。これは、私だけの記録だ。

春風が吹き抜け、桜の花びらが一枚、マンホールの上に舞い落ちた。 只野教授の生活は、これからも変わらず、このキャンパスで続いていく。

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