第一章:自動配送ロボットと袋小路の哲学
1. 新たな隣人
季節は巡り、春。 只野仁(五十五歳)は、キャンパスの煉瓦敷きの歩道を歩いていた。
彼の前を、白い箱型の物体がウィーンというモーター音を立てて走っている。
最近導入された、学内書類配送用の自動ロボット「キャンパス・ポーター(愛称:ポチ)」だ。
「……ふむ。君も大変だな」
只野はポチに話しかけた。 ポチは、歩道のタイルがわずかに隆起している場所で立ち止まり、左右に小刻みにタイヤを動かして困惑している。
センサーが段差を「障害物」と判定し、回避ルートを再計算しているのだ。
「そこは、三十年前に植えられた桜の木の根が、地下からタイルを持ち上げているんだ。植物の生命力が、最新のテクノロジーを足止めしている。実に痛快で、美しい光景だ」
只野はしゃがみ込み、立ち往生するロボットと、ひび割れたタイルのスケッチを始めた。
「先生、邪魔です。ポチがエラーを吐いてます」
冷ややかな声が降ってきた。
見上げると、銀縁メガネをかけた男子学生が立っていた。
彼はタブレット端末を操作し、ポチの制御画面を見ている。
新入生の木島(きじま)だ。彼は「情報社会学部」の一期生で、入学早々、学内システムの脆弱性を指摘したという天才肌の学生である。
「おや、木島君。君はこのロボットの保護者かね?」
「僕は運用管理のバイトをしてるだけです。先生が前にいるせいで、LiDARセンサーが誤作動を起こしてるんです。どいてください」
「すまない。だがね、木島君。このロボットは『効率』のために導入されたはずだが、桜の根っこ一つで三分も停止している。私がこの書類を歩いて運んだ方が早いとは思わないか?」
木島は無表情で答えた。
「人間は疲れるし、サボるし、間違いを犯します。ロボットは学習すれば、次はここを避けます。長期的視点で見れば、先生よりポチの方が優秀です」
「なるほど。長期的視点か」
只野はニヤリと笑った。
「だが、君の言う『優秀』には、『寄り道の楽しさ』という変数は含まれていないようだね」
2. 研究室、消滅の危機
研究室に戻ると、そこには不穏な空気が漂っていた。
かつての相棒(?)であり、現在は学部長補佐に出世した森川教授が、腕組みをして待っていたのだ。
「只野先生。単刀直入に言います」
森川は、以前よりも仕立ての良いスーツを着ているが、眉間のシワは深くなっている。
「この旧・人文研究棟、取り壊しが決まりました」
只野はマグカップを持ったまま固まった。
「……ほう。この築四十五年の、味わい深いカビの匂いがする建物が?」
「老朽化と耐震性の問題です。跡地には、ガラス張りの『AI・データサイエンスセンター』が建設されます。先生の研究室も、来年度からは新棟のフリーアドレス・オフィスに移動してもらいます」
「フリーアドレス? あの、毎日席が変わるという?」
「そうです。個人の荷物はロッカー一つ分。本や資料はすべてデジタル化し、廃棄してください」
只野は部屋を見渡した。 壁を埋め尽くす本、拾ってきた看板、石ころ、謎の木片。
これらをロッカー一つ(幅30cm)に収めることは、物理的にも、彼の精神的にも不可能だ。
「森川先生。それは、私の身体をスキャンしてデータ化し、実体は消滅させろと言っているのと同じだよ」
「……わかっています。だから、僕も反対したんです。先生のこの『ゴミ屋敷』……失礼、『資料の宝庫』は、文化遺産的な価値があるかもしれないと」
森川は少し悔しそうに唇を噛んだ。
「ですが、大学の方針は『選択と集中』です。成果の見えにくい路上観察学は、風前の灯火なんです」
3. タイパ(タイムパフォーマンス)世代のレポート
その日の午後。基礎演習の講義。 只野は学生たちに「大学周辺で気になった『文字』を採取せよ」という課題を出していた。
かつての佐藤や田中のように、スマホで写真を撮ってくる学生が多かったが、木島の提出物は異質だった。
「はい、これです」 彼が提出したのは、完璧に整ったレポートだった。 『大学周辺における看板フォントの傾向と、年代別劣化率の相関分析』 画像認識AIを使い、Googleストリートビューの画像から看板を自動抽出し、フォントの種類と錆び具合を数値化してグラフにしている。
「……すごいな。これを君が歩いて調べたのか?」
「いえ。生成AIとスクレイピングツールで作りました。所要時間は五分です。現地に行くのは『タイパ』が悪いんで」
教室がざわつく。「すげー」「天才じゃん」という声。
只野は眼鏡を外し、レポートを机に置いた。
「木島君。君のレポートは完璧だ。データも正確、分析も論理的だ」
「でしょ? 単位、もらえますよね」
「だが、君は一つだけ、決定的な嘘をついている」
只野は、レポートにある一枚の写真を指さした。それは「止まれ」の標識だ。
「この標識のデータ上の劣化率は『30%』となっている。
だが、私は昨日、この標識を触ってきた。実はこの標識、裏側に近所の子供が貼ったと思われる『プリキュア』のシールが隠れているんだ。そして、誰かがそれを剥がそうとして爪でカリカリやった跡がある」
只野は自分の指先を見せた。 「その『カリカリの跡』のザラつきこそが、この標識がこの街で愛され、あるいは邪魔にされてきた歴史の手触りだ。ストリートビューとAIには、その『手触り』は記録できない」
木島は初めて、ムッとした表情を見せた。 「……それが、なんの役に立つんですか? 手触りなんて、主観的なノイズです」
「その通り。ノイズだ。だが、我々人間もまた、宇宙から見れば非効率なノイズだろう? ノイズがノイズを愛さなくてどうする」
只野はニコリと笑った。
「課題は再提出だ。木島君。今度はAIを使ってもいいが、必ず一つ、君自身の『指先』で触れた感想を書き加えなさい。それが『人間証明』だ」
木島は無言でタブレットを鞄に突っ込み、教室を出て行った。 しかし、その背中は、以前のポチ(ロボット)のように、少しだけ「回避ルート」を迷っているように見えた。
研究室の取り壊しまで、あと一年。 只野教授の、AIと効率化に抗う「最後の抵抗」が始まろうとしていた。
(続く)


コメント