第五章(最終章):キャンパスという名の路上と、教授の永続性
1. 駐輪場の哲学
春の陽光が、大学の裏手にある古びた「第二駐輪場」に差し込んでいた。 ここは、サークルのビラや、錆びたチェーン、そして学生たちの「失くし物」が堆積する、キャンパスの隅っこである。
その一角に、只野教授の「新研究室」があった。
教授は、折り畳み式のキャンプチェアに座り、古びた毛布を膝にかけている。テーブル代わりのビールケースの上には、例の「努力」マグと、顕微鏡、そしてノートが広げられていた。
「よし。今日の研究テーマは、『自転車のサドルに付着した花粉の構成比率から見る、学生の通学ルートの推移』だ」
教授は、いつものようにブツブツと独り言を言いながら、サドルの表面をルーペで丹念に観察している。
大学当局は只野に新しい研究棟のフリーアドレス席を与えていたが、彼は拒否した。 「私はフィールド(路上)で生きる。この駐輪場こそ、人間社会の**『移動と停滞』**が可視化される、最高のラボラトリーだ!」
只野の「ホームレス教授」生活はすぐに学生や職員の間で噂になった。彼はキャンパスの公認ホームレスとして、誰もが無視する場所を「居場所」とし、研究を続けていた。
2. AIも予測できない「ノイズ」
木島は、只野教授の生態を遠くから観察していた。 彼はAIに、過去の気象データ、学生の登下校データ、只野の過去の行動パターンをインプットし、**「只野教授が次に移動する確率の高い場所」**を予測させていた。
「今日は、日当たりの良い中庭のベンチの確率が98%だ。しかし、なぜ彼はわざわざ日陰で、排気ガスが溜まりやすい駐輪場にいるんだ?」
木島はイライラしていた。彼の持つ、あらゆる効率と確率のアルゴリズムが、只野という「ノイズ」によって崩壊していた。
その時、森川教授が、駐輪場に設置された古いロッカーの影から、只野に声をかけた。
「先生、これ。研究費で買いました」
森川が差し出したのは、高性能のモバイルバッテリーと、防寒用の薄くて高機能なブランケットだった。
「どうした森川先生。これは私がこの地で得るべき『非効率な苦労』を奪う行為ではないかね?」 「違います。これは、先生の**『研究継続率(Persistence Rate)』を高めるための、最小限の『環境最適化コスト』**です。これで、夜間もデータ収集が可能になる」
森川は依然として効率性を重視する言葉を使ったが、その瞳には心配の色が滲んでいた。彼は、自分の持つ唯一の武器(予算とデータ)を使って、恩師の「無駄な生存」をサポートしていたのだ。
3. 最も価値あるアウトプット
教授の「路上生活」が一ヶ月を迎えようとしていた週末。 大学の警備担当者が、只野教授に最終警告を伝えに来た。
「只野教授。申し訳ありませんが、近隣住民から苦情が出ています。明日までに、この場所から私物を撤去してください」 「苦情? 私はここで、誰にも迷惑をかけていない」 「いいえ。あなたは『風景の乱れ』を生んでいるんです。大学の『イメージ』を……」
只野は立ち上がった。研究道具を片付けようとしない。 「私の研究の主題は、まさにその『風景の乱れ』の中にあるんだ!」
警備員が強制的に椅子を片付けようとしたその時、背後から、木島が大きな声で叫んだ。
「ストップしてください!」
木島は、警備員と只野教授の間に割って入った。手にはタブレットを持っている。
「只野教授のこの場所での活動は、大学のブランド価値と学生の心理的安定に、正の相関関係を示しています」 木島は早口で捲し立てた。
「どういう意味だ?」警備員が戸惑う。
「先生がここで観察を始めて以来、学生アンケートの『キャンパスへの愛着度』が平均1.8%上昇しました。特に、ストレスを抱える学生の**『不満書き込み率』**が、前年比で25%減少しています」
木島はグラフを見せた。
「学生たちは、只野教授の姿を**『大学に存在する、唯一の非効率で正直なアンカー(錨)』として無意識に認識しています。教授の『無駄』な存在自体が、現代社会のタイパ(タイムパフォーマンス)疲れに対する、最も効率的な精神安定剤**として機能しているんです!」
木島は、只野教授の「価値」を、誰よりも嫌っていたはずの「データ」で証明したのだ。
4. 永続性の証明
警備員は、木島のデータと、背後にいる森川教授の威圧感(と、その背後にある大学の予算)に屈した。
「わ、わかりました。一時的に、この区画を**『野外フィールドワーク・ステーション』**として運用することを検討します。ただし、火気厳禁でお願いします」
只野教授は、静かに笑った。 「木島君。君は、私の研究の『価値』を、私自身よりも正確に数値化したな。恐ろしいことだ」
木島は、顔を赤くしながらも、初めて只野に深く頭を下げた。 「……僕が知りたいのは、先生がなぜ、『効率的に楽な場所』ではなく、この『非効率な駐輪場』を選んだのか、そのアルゴリズムです」
只野は毛布を肩にかけ直し、駐輪場の奥に転がっている、片方だけのゴム長靴を指さした。
「それはね、木島君。真の研究とは、**『予測可能な答え』ではなく、『予測不可能な出会い』**を探すことにあるからだ。そして、予測不可能な出会いは、いつも路地裏の、誰にも見向きされない『袋小路』に隠れているものだよ」
「……」
教授は、その日、夜空の下で、森川からもらった温かいブランケットにくるまりながら、夜間の駐輪場の静寂の中で、新しい研究テーマをノートに記した。
『夜間照明の色温度が、学生の自転車ロックの掛け方に与える心理的影響』
只野教授の生活は、研究室という物理的な形を失っても、その観察者の視点がある限り、永遠に続いていく。
(続・完)

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