第一章:アジフライの定理と学生の憂鬱
1. 七時四十三分の観測者
只野仁(ただの・ひとし)、五十二歳。地方私立大学、人文学部の教授である。専門は「近現代路上観察学」。平たく言えば、道端に落ちている片手袋や、看板の誤字脱字の変遷を大真面目に研究している男だ。
彼の朝は、厳格なルーチンによって支配されている。 午前七時四十三分発の上り電車、三両目の二番ドアから乗車。つり革は左手で持つ。右手は文庫本のために空けておくためだ。
「おはようございます、先生」
車内で声をかけてきたのは、三回生の佐藤だった。金髪のインナーカラーを入れた、いかにも現代っ子という風貌の女子学生だ。只野は愛想笑いを浮かべようとして、頬の筋肉が少し引きつるのを感じた。
「ああ、佐藤君。早いね」 「今日、一限からなんすよ。マジ眠い」 「『マジ』という強調語の使用頻度が、君の場合は朝方に偏る傾向があるね」 「……はあ。先生、それ分析して楽しいすか?」
楽しくはない。職業病だ。只野は心の中でそう答え、曖昧に頷いた。電車が揺れる。佐藤がスマートフォンを高速でフリック入力しているのを横目に見ながら、只野は思う。彼女たちの指先から紡がれる膨大なテキストデータは、百年後の歴史学者にとって解読不能な象形文字になるのではないか、と。
2. 研究室という名の樹海
大学に到着した只野を待っているのは、築四十年の薄暗い研究室である。 ドアを開けると、古本のカビと安物のインスタントコーヒーが混ざった独特の匂いが鼻をつく。机の上には、「至急」という赤字の付箋が貼られた書類が山脈を形成していた。
「教授会の議事録確認、予算申請の修正、学生の進路相談……」
只野は溜息をつき、愛用のマグカップ(観光地の土産物屋で買った『努力』と書かれたもの)に湯を注いだ。 彼が本当にやりたいのは、昭和五十年代の商店街における「閉店セール」の看板の書体分析だ。しかし、現実は事務作業という雑草刈りに追われている。
「先生、いますかー?」
ノックもなしにドアが開いた。四回生の田中だ。彼は就職活動という荒波に揉まれ、最近めっきり顔色が悪くなっている。
「どうした、田中君。エントリーシートの添削か?」 「いえ、違います。先生、人生って何なんですかね」
重い。朝の九時半にする質問ではない。 只野は眼鏡の位置を直し、目の前の学生を見据えた。
「田中君。君のその問いは、哲学の領域だ。私の専門外だが、観察学の視点から言えることはある」 「なんすか」 「君のネクタイが曲がっている。そして、シャツの第二ボタンが取れかかっている。人生について語る前に、まずはそのボタンを縫い付けたまえ。細部は全体を支配する」
田中は自分の胸元を見て、力なく笑った。 「……深いっすね。ボタン、直します」
田中が出て行った後、只野は少しだけ自己嫌悪に陥った。もっと気の利いた、教師らしいアドバイスはできなかったのか。だが、嘘をつくのは学問に対する冒涜だ。
3. 学食における選択のパラドックス
正午。只野にとって一日で最も重要な意思決定の時間がやってくる。ランチだ。 学食の券売機の前で、彼は腕組みをして立ち尽くしていた。
- A定食(ハンバーグ): 安定の味だが、昨日の夕食と被る。
- B定食(アジフライ): 揚げたてなら天国、作り置きなら衣の塊。
- 日替わり麺(激辛担々麺): 午後の講義に支障をきたすリスクあり。
「只野先生、後ろがつかえてますよ」
背後から、若手准教授の森川に声をかけられた。彼はスマートウォッチで心拍数を計測しながら、サラダチキンを持参するような「意識の高い」男だ。
「すまない、森川先生。アジフライの衣の状態を確率論的に予測していた」 「またそんなことを。Bのボタン、さっさと押してください」
促されるままにB定食のボタンを押す。 食券をカウンターに出し、受け取った皿の上には、見事なきつね色のアジフライが鎮座していた。湯気が立っている。 (勝ちだ) 只野は心の中でガッツポーズをした。衣はサクサク、中はふっくら。この些細な成功体験こそが、彼が明日もこの大学に来るための燃料となるのだ。
席につき、ソースをかける瞬間の放物線を眺めながら、只野はふと思う。 「私の生活も、このアジフライのようなものではないか」
外側は「教授」という堅い衣で覆われているが、中身はごく普通の、アジ(味)のあるおじさんだ。……いや、今のダジャレは講義では使えないな。
只野は一人で小さく首を振り、「いただきます」と手を合わせた。 今日もまた、平凡で、少しだけ騒がしい午後が始まろうとしていた。


コメント