第六章:学会という名の戦場と、二つの「書体」論
1. 発表前の最適化
秋の週末。東京の大きなコンベンションセンターで、人文学系の合同学会が開催されていた。
森川准教授は、壇上に立つ只野教授の姿を見ながら、頭痛を覚えていた。森川の発表はすでに終えている。最新のデジタルツールを駆使し、スマートかつデータに基づいた完璧なプレゼンテーションだったと自負している。
それに引き換え、只野教授は。
「先生、確認ですが、スライドはパワーポイントで作成されたんですよね? アスペクト比は16:9で統一されていますか?」
発表直前、森川は只野教授に詰め寄った。
「ああ、森川先生。スライド? スライドは五枚だけだよ。残りの時間は、私が手書きしたフリップを使用する。あの、裏が少し剥がれかけた大きなやつだ」 「フリップ……ですか。あの、教室に飾ってあるような? 先生、今は21世紀ですよ! データのビジュアル化と情報の効率的な伝達が……」 「大丈夫、森川先生。私の発表は、効率とは対極にある。効率を追求した結果、人が見落としてきた『余白』こそが、私のテーマだからね」
只野教授の発表タイトルは、『現代日本におけるビニール傘の置き忘れと「喪失の美学」に関する考察』。
森川の発表が『「ラーニング・コモンズ」における学生の相互作用の統計的分析』という最先端のテーマだったのに対し、只野教授のテーマは、あまりにも路上観察的で、どうでもよさそうに見えた。
2. 書体の持つ「湿度」
いよいよ、只野教授の発表が始まった。
只野教授は、黒いスーツのボタンをきちんと留め、いつになく真面目な顔で話し始めた。彼の語り口は静かだが、その内容は熱を帯びていた。
「——私が今回着目したのは、雨の日の交差点で見られる、無数の置き忘れられたビニール傘です」
教授は最初のスライドを映した。そこに映し出されたのは、水たまりの横に傾いて倒れている、一本の透明なビニール傘のアップだった。
「私たちはこのビニール傘を『ただのゴミ』として認識し、視界から排除します。しかし、私はこの傘を、**『喪失された記憶と期待の容器』として捉えたい。この傘には、持ち主の『いつか雨が上がったら戻ってくるだろう』**という淡い期待が宿っているのです」
会場は、最初は戸惑っていたが、次第に只野教授の独特の論理に引き込まれていく。
教授はスライドを一枚めくり、そして**「手書きのフリップボード」**を広げた。
そこには、太く、少し震えたマジックで、彼が全国で集めた様々な「傘置き場」の看板の文字が描かれていた。
「そして、私は提案します。傘立ての看板に書かれた**『ご自由にお使いください』の書体、この太いマジックで書かれた文字の『湿度』**こそが、その傘立ての持つ『信頼度』を決定づけているのではないか、と」
森川は思わず立ち上がりそうになった。 「非科学的だ! データがない!」
しかし、只野教授は構わず続けた。
「例えば、筆で書かれた文字には、その施設への**『郷愁』が、印刷された文字には『事務的効率』が、そして、この手書きの太いマジックには、書き手の『切実な善意』が込められている。この『善意の書体』の持つ微かな震え、その非効率な線の乱れが、置き傘をめぐる人間関係の『感情のデータベース』**なのです!」
会場がざわめく。これは学問なのか? いや、これは、只野教授にしか到達しえない「路上哲学」だった。
3. 最も効率的な結論
質疑応答の時間。当然ながら、森川が最初にマイクを握った。
「只野先生。先生の考察は大変ユニークですが、すべてが定性的な評価、つまり『感覚』に基づいています。この『善意の書体』の信頼度を定量化する、つまり**『数値化』**するための指標は存在するのでしょうか?」
森川の質問は、彼の専門分野における、最も核心的なツッコミだった。
只野教授は、にっこり微笑んだ。そして、この日一番、会場を驚かせる結論を述べた。
「森川先生、いい質問だ。その**『数値化』、つまり『定量的な評価』こそが、君と私の共同研究のテーマ**となるだろう」
会場が再びざわめいた。
「例えば、この『善意の書体』の看板が設置された傘立てで、実際に盗難が起こる確率を、『盗難率』として統計的に抽出する。そして、その『盗難率』と、書体の『インクの滲み』や『線の太さの揺らぎ』をAIで解析し、相関関係を見出すのだ。これは、君の得意とするデータ分析と、私の得意とする現象観察が、最も効率よく融合する究極のDXではないかね」
森川は、その言葉に絶句した。 只野教授は、彼の「非効率」な研究の中に、森川の「効率」を組み込むための、極めて論理的で完璧な**「出口戦略」**を用意していたのだ。
森川は、只野教授というアナログな要塞が、実は最も巧妙な戦略家であることを理解した。彼の顔に、微かに笑みが浮かぶ。
「……先生。その非効率な共同研究、ぜひ進めさせていただけませんでしょうか」
学会という戦場は、二人の研究者を繋ぐ「協力」という名の奇妙な契約を結ばせて、幕を閉じた。会場を出る只野教授の背中は、いつもより少しだけ、誇らしげに見えたのだった。

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