只野教授の生活

只野教授

完結記念あとがき & その後のエピソード

【あとがき:『無駄』という名の豊かさについて】

この物語は、効率化や生産性が叫ばれる現代社会において、あえて「立ち止まること」「下を向いて歩くこと」の尊さを描こうとしました。

主人公の只野仁教授は、決して世の中を変えるような偉大な発見はしません。彼が見つけるのは、錆びた看板、片手袋、無用階段……いわゆる「社会のノイズ」です。 しかし、そうした「誰の役にも立たないもの(無駄)」に愛おしさを見出す彼の視点は、効率化の波に疲弊した森川准教授や、正解のない未来に怯える学生たちの心を、少しだけ救います。

人生の豊かさは、目的地に早く着くことではなく、その道中でどれだけ多くの「面白い小石」を拾えるかにあるのかもしれません。 この物語が、読者の皆様にとって、ふと足元のマンホールや、街角の看板を眺めるきっかけになれば幸いです。


【ショートエピソード:それから三年後の彼ら】

物語の完結から三年後。彼らはそれぞれの場所で、只野教授から受け継いだ「観察眼」を活かして生きています。

Case 1: 佐藤美咲(24)——「バズる」のその先へ

Webメディア編集者となった佐藤は、深夜のオフィスでキーボードを叩いていた。 彼女が担当する連載コラムのタイトルは『東京・切なさの考現学』。

「……よし、書けた」 今回のテーマは、「コインランドリーの忘れ物靴下」だ。 以前の彼女なら、「映える」カフェや「バズる」コスメを追っていただろう。しかし今は、誰にも見向きされない日常の風景に、独自の物語(ポエムとも言う)を添えて発信している。

『片方だけの靴下は、孤独ではない。相方を待つ「希望」の形なのだ』

その記事は、深夜のTL(タイムライン)で静かに拡散され、疲れた会社員たちの「いいね」を集めていた。 彼女のネイルは相変わらず派手だが、その指先は、確かに世界の手触りを掴んでいた。

Case 2: 田中(25)——インクの染みに見る心理

地元の文具メーカーで企画職に就いた田中。 彼は今、全国の文房具店から回収した「試し書き用紙」の山に埋もれている。

「部長、見てください! 関東では『あ』という文字の試し書きが多いですが、関西では螺旋状のグルグル書きが圧倒的です。これは、せっかちさとインクの出を重視する県民性の違いです!」 「田中君、君……変なところに熱心だねえ」

上司は呆れ顔だが、田中は止まらない。 この「試し書き分析」から生まれた、書き出しの滑らかさに特化した新ボールペン『スルッと』は、予想外のヒット商品となっていた。 田中のデスクには、只野教授から卒業祝いにもらった「努力」のマグカップが、今も鎮座している。

Case 3: 森川誠(37)——最適化された「遊び」

森川は教授に昇進していた。 相変わらずスマートウォッチで心拍数を管理し、DXを推進している。しかし、一つだけ変わったことがある。

週末、彼は一眼レフカメラを首から下げて、一人で街を歩いているのだ。 被写体は「電柱の配線」。

「……この複雑怪奇な配線の絡まり具合。カオス理論の視覚化として非常に興味深い。データの非効率な集積こそが、都市の有機的な美を生むということか……」

彼はブツブツと理屈をこねながら、夢中でシャッターを切る。 やっていることは只野教授と変わらないが、本人はあくまで「都市工学的なフィールドワーク」だと言い張っている。 その写真は、意外にも構図が完璧すぎて、「情緒がない」と只野教授に笑われているらしい。

Case 4: 只野仁(55)——変わらない観察者

そして、只野教授。 彼は今日も今日とて、大学の中庭に這いつくばっていた。

「おや、これは珍しい。アリの行列が、落ちていたキャラメルの包み紙を避けて迂回している。この包み紙の銀色の反射を嫌っているのか? それとも、この昭和レトロなロゴデザインに敬意を表しているのか……?」

通りがかる新入生たちが、怪訝な顔で彼を見ている。 しかし、只野教授は気にしない。 彼の瞳には、今日も世界が、解き明かされるのを待っている「巨大な博物館」として映っているのだから。

「さて、今日はC定食(唐揚げ)にするかな。衣の形状にカオスを見出したい気分だ」

只野教授はパンパンと膝の土を払い、ゆっくりと立ち上がった。 その背中は、相変わらず飄々として、どこまでも自由だった。

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